ボヘミアン・ラプソディ
映画を観ます。ボヘミアンラプソディー。ロックバンド、クイーンのリードボーカル、フレディーマーキュリーの自伝的映画。
高校生まではクラシック一本に育ったボク。中学生の頃にアメリカからホームステイでしばらく家に滞在していた父の友人の息子さんが、そんなことじゃバカになるぞと買ってくれたサージェントペパーズロンリーハーツクラブバンドが唯一、ボクとロックの世界をつなぐモノだった。
1975年のことです。
へんてこりんだけれど多分好きだと思うと友人に勧められて聴いた「オペラ座の夜」。
衝撃を受け「シアーハートアタック」「クイーンII」「戦慄の女王:クイーン」と遡ってアルバムを聴きすっかりハマり、それから毎年一枚のペースでアルバムがリリースされるのが待ち遠しくなる。
輸入洋楽レコード屋という場所に出入りするようになったのもクイーンがきっかけ。今の全方位的音楽趣味を作ってくれたきっかけはボヘミアンラプソディーだったと思う。
「華麗なるレース」「世界に捧ぐ」「ジャズ」「ザ・ゲーム」と1980年までは付き合ったけどそこで気が済み、新作アルバムを期待しなくなっちゃった。
歴史に名を馳せたアーティストの中にはセックスシンボルと呼ばれた人がたくさんいた。彼もそういうスターの一人で、けれど非常に特異なセックスシンボルだった。
当時はMTVの全盛期で、洋楽ミュージッククリップを流す番組が結構あった。そういう番組で白黒のユニタードを着たヒゲの男性が、腰をくねらせ汗だくになり声を張り上げ歌う姿が流れると、お茶の間には何か気まずい緊張感がただよったもの。
それがフレディマーキュリーだった。
今になって思えば、あのときの彼の姿は、ぼんやりテレビを見ている人に「社会の異物の存在」を突きつけ、「その異物が内包する圧倒的な才能」をも突きつけ、果たして人はどこまで「才能そのものを認める寛容」をもっているかを考えさせるものだった。
人はなりたいものになれるのか。
なりたくてなりたくてしょうがないのに、なれないものがあるとしたら、それをなりたいと思うことは罪深いことなのか。
そしてそもそも、自分らしくあるということは一体どういうことなのか人に考えることを強いる映画です。
映画の中でフレディマーキュリーはさまざまなものに映り込む。
サングラス。
ピアノの本体。
人の瞳やガラスやカメラのレンズに映る。そこにいるものと、ここにあるものは果たして同じなものであるのか。自分は何かに映った自分をみるだけ。受け入れるのか、戦うのか、それともそこから目を背けるのか。非常に重たいテーマを救うものが音楽。
すばらしかった。当時のいろんなことを次々思い出し、見終えた仲間と一緒にカラオケに突入したほど。なまなましくて、心が動いた。
他に居場所のない人が「音楽という居場所」をみつけ、世界とひとつになる物語。ボクの居場所はどこだろう。そこで世界とひとつになるとは、どういうことか…、と考えしたたか武者震いした。オキニイリ。
大人に連れて行ってもらって、はじめてみたLIVEが武道館のクイーンでした。
ちなみに次がデビットボウイ。
鳥肌ってこういう時に出るんだというコーフン。
そののちエイズって!?
大好きなティナ・ラッツも奪った病にどんなに悲しかったか、
はじめての一人暮らしで同じアパートの住人の半分はバイセクシャルだったので今思えばとてもとてもいい環境で感性の修行をできたなぁ~とか、
このころってまだまだ保守的だったんだなぁ~とか…。
2度も見てしまったこの映画。
柔らかい時代を思い出してきゅんきゅんしています。
ワイメアさん
柔らかい時代…、その通りでした。
ボクはアメリカ時代の友人の三分の一を愛の病気でなくしました。無力感と希望。罪悪感とアイデンティティ。日本はありがたいことにそういう深刻を経験せず、だから本当のダイバーシティを手にすることが出来ないのかもしれない…、なんて思いました。
>本当のダイバーシティを手にすることができないのかもしれない…
そうしてそれは、本当の意味での相互尊重が成立しない、ということでもありますね。
参政権でも人種差別でも、先人達はどれほど、長いビジョンと不屈の意思で、私たちに筋道をつけてくれたのだろうと思うと、涙が出ます。
そう思って観たライブエイドのシーン、が泣けてしょうがなかったです。no time losers, that’s our spirit!
たばきちさん
人と違っているから立派なわけではないのです。
互いが違っていることを認め合う勇気こそが立派なこと。そしてどんなに違っていても、自分らしく真剣に生きているんだという部分で共感を得ることができれば、違いを越えた一体感を得ることができる。
そんな人と過ごせる人生こそがすばらしいモノなのだろうと思います。
ボクはとてもシアワセなのかもしれないなぁ…、としみじみ思う映画でもありました。