神社巡りで心を洗う

宮崎にきて、仕事の合間に神社をめぐる。
最近、パワースポットとして名高い「東霧島神社」をふりだしに。
鬱蒼と茂る木々の中に、イザナギノミコトが剣で切ったと言われる大岩があり、石造りの鳥居とその鳥居が従えた石の柱が大岩を守るように取り囲む。
それらすべてが苔むして、ただならぬ気配を発する。
樹齢千年と言われるクスノキ。深い緑の木々がこちらに襲い掛かってくるようで、何より空気が重い。ズッシリ体を包み込む。人が自然の中にあるありとあらゆるものを敬い、拝み畏れていた昔。不思議な気配をもったこの山ひとつ丸ごと、神様のように感じて拝んでいたに違いなく、宗教的なさまざまを棚上げしてもなおなにか、自然と両手をあわせて頭を下げたくなる。命を感じる…、とでもいいますか。

鬼が作ったと言われる階段がある。
神様と鬼が契約をして、鬼が一夜で作り上げという謂れある石の階段。階段というには険しく、不揃いな石が積まれて上へ上へとつながっている。
そのてっぺんははるか遠くて霞んで見える。
角度も急で、上りきれるかなぁ…、とおじさん的にはかなり心配になってしまいます。
ドキドキします。
ふりむかないで登りきると願いが叶うという謂れがあって、覚悟を決めて登ることにする。
途中、4ヶ所ほどの踊り場めいた平場があって、そこまでひたすら足元みながらゆっくり登る。
足元から目を離してしまうと危険に感じるほどに不揃い。しかも石には苔が生えていて、ぼんやりしてると滑ってしまう。
だからひたすら足元をみる。一歩、そしてまた一歩。平場について初めて上を見上げると、まだまだ先が長いのです。息を整えまた一歩。そして一歩と足上げ、踏みしめ登ってく。

どのくらい登ったんだろうと、どうしても振り返りたくなるんですよね。
これから上がるべき段数と、今まで上がってきた段数を比較することができれば気持ちが収まりそう。
でも振り返ったらご利益がない。
それで必死に、ひたすらに一歩、そしてまた一歩。
最後の踊り場で息整えて、気力をためてガクガクする足を必死に持ち上げ、鬼の階段のてっぺんに着く。

そこではじめて振り返り、あぁ、こんなに高くまでやってきたんだと不思議な達成感を味わうのです。
なんだかこれって人生かもなぁ…。
振り返ってばかりじゃなかなか先にむかえなく、前へ前へ。
上へ上へとただ足元を見ながらあゆむ。なんだかしみじみ生き方思う。
登った先には本殿がある。飾り気のない素朴な社殿でけれど不思議なパワーを感じる。周りの木々や自然とひとつに溶け合う感じが厳かで、大きく息を吸い込むと体のすみずみに力が満ちて行き渡る。ありがたいなと頭を垂れて手を合わす。

続いて「霧島東神社」を訪れる。
標高500mの高台。御池という大きな池を見下ろす緑の中にある。
イザナギノミコトとイザナミノミコトを祀った場所で、ここも木々に囲まれ自然と溶け込む独特の空気感。ただ東霧島神社は空気はどっしり重たく濃厚で、ここの空気は明るく軽くさわやかというのがオモシロイ。
ちなみに先の「東霧島神社」は東を「ツマ」とよみ、ツマキリシマジンジャ。ここ霧島東神社は「ヒガシ」と読んでかつてはヒガシキリシマジンジャと呼ばれていたこともあったんだという。宮崎というこの地域。日本が生まれた場所のひとつ…、つまり言葉が生まれた場所でもあって不思議な読み方をする地名がたくさんあったりもする。オモシロイ。

そしてもう一か所。狭野神社。
神武天皇の誕生の地と言われるこの場所。
神武天皇の幼名が「狭野尊(サノノミコト)」。それにちなんだ狭野神社。
菊の御紋が優雅にひかる正門から、真っ直ぐ続く参道のうつくしきこと。まるで別の世界に一直線に向かっているように思える長さで、キレイに掃き清められた玉砂利をジャジャッ、ジャジャッと踏みしめながら足をすすめる、その過程ですでに心が清められるような気持ちがしてくる。
社殿の前に祈りを奉納する建物があり、木々もすべてがシンメトリーに整えられてる。人工のもの、自然のものが溶け合い特別な空間を作り出しているという、あぁ、日本の祈りの場所とはこういう場所なんだ…、としみじみ思う。満たされる。

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